サウンドデザイナーの仕事 ~歌舞伎版ハムレットを題材に~

 

音のすべての監督者として

昨年、歌舞伎版ハムレットを持ってロンドンへ行ってまいりましたけれど、実は私が国立劇場でこれまでやってきたことと違った面で、非常に仕事がやりやすかったのです。それは一つの仕事に没頭できたということでもありますし、それから俳優や音楽家と私たちの立場も非常に良い関係になりまして、お互いに協調して舞台作りができたことです。

 

サウンドデザイナーは、音響の全ての監督をしていくという仕事なのです。

あるときはお金の面も考え、そこで働くサウンドクルーの健康状態から、その人たちの能力まで、全て把握しておかなくてはできないということなのです。

音の仕事を円滑に進めるための交通整理の役もするのです。そして、音のイメージ処理、つまり具現するための作業はもちろんですが、ステージを支える要素の中で音響セクションの位置関係(地位)を見極めて、オペレータに的確に指示して音作りをします。

 

また、SESRの仕事の区分けをしないで、トータルで考えていかなければならないのです。

部分、部分で、生の音を補強するのか、録音にするか、より効き目のある手段を選択するのがサウンドデザイナーの仕事です。

私たちは、音源がアコースティック楽器も電気楽器も録音されている音も、すべてをコントロールして劇場の音響を創造するのが仕事ですから、SRの手法とプレイバックの手法を駆使して、めざす音を創ればいいのです。

 

調整卓も、デジタル化されてしまえば、SE卓とかSR卓とにわけることもなく、自在にサウンドデザインして、オペレーションできることになるのです。

 

作品の本質を見極める

今回の仕事は、昔、ハムレットを歌舞伎調に書いた脚本がありまして、それを演出したもので、パナソニック・グローブ座(新大久保)で幕を開けて、新神戸オリエンタル劇場でも上演し、その後にジャパンフェスティバルUK(英国)に参加したわけです。

 

まず台本を頂き読み込んでいきます。元になったハムレットの本(シェークスピアのもの)も読みました。そして、どこがどのように違っているか、歌舞伎版の作家は何を表現したいのかを、演出家と何度も打ち合わせをしました。

その中でいろいろと調査をしたりしながら音の考えていきますが、この作品の本質、何を表現したいのか、何がメッセージなのか、ということを探っていきます。

 

それからもうひとつ、これは日本人だけを対象とした演劇ではないということです。

歌舞伎は、400年以上かけて一つの民族によって一つの民族のために作られた民族芸能です。それを外国へもっていったときにどう評価されるかということもあります。

これを英語でやるわけではなく、今までどおり、歌舞伎のもっている手法、歌舞伎の台詞と音楽よって進行します。

なるべく歌舞伎の特徴を前面に出したいということがありましたので、外国の人たちに言葉によって理解していただくことは非常に難しいだろうということで、台詞も楽器も歌も心地よい良い音楽として聞かせようと考えました。

 

そもそも、歌舞伎というのは電気音響無しで育ってきた演劇ですが、現在では劇場の音環境によって、台詞と音楽のバランスが非常に悪い演劇になっています。

それは、演奏家が客席に行って聴くということがほとんどないからです。舞台袖の演奏場所にいて、そこで客席でどう聞こえているか探りながらやっているだけなのです。そのため私たち音響家は客席にいて、バランスはどうかということも含めて、音響全体をチューニングしているわけです。


ですから今回のハムレットでは、ハムレットのあらすじは知っている英国で上演するのですから、下座音楽と義太夫、それらもすべて含めて、音響的にきれいに並べ直して、聴感的に訴えることで、日本語の分からない人たちを感動させようとサウンドデザインに取り組みました。

これはSRすることだけでなく、演奏位置を変えたりして、まず生の音の状態でバランスをとり、最終的にSRを用います。

 

生演奏の持つ力

それから、プロデュースの問題でいろいろな制約がありました。当初は予算の関係で、演奏家を連れて行けないのですべて録音にするということでした。

以前に別の公演で東南アジアを回ったときは、下座音楽も義太夫もすべて録音にして、音楽テープを細かく編集してやったことがありますので、テクニックとしてはで難しいことではないのです。

ただそこで、生演奏と録音の違いを演出家に説明、またはプロデューサを説得することも私たちの仕事なんです。音響家の存在をアピールするならば、録音でやった方が評価が上がる(目立つ)でしょうが、良いものは良いということを説得すべきです。

この芝居の主役は市川染五郎さん、まだ19才です。

お父さんは海外でミュージカル「王様と私」をやった松本幸四郎さんです。

それで幸四郎さんは「絶対に生演奏で行きなさい」と非常に強く推しまして、どうにか費用を工面しながら生演奏で持って行こうとということになりました。やはり生演奏と録音というものは大きく違います。


最近、テレビでタモリがやっている音楽クイズ番組(テレビ東京)で、その中のSEは全部生演奏でやっていました。ですから非常に緊迫感があります。

それから日本のミュージカル「キャッツ」は録音ですけれども、外国では生演奏でやられています。厚い布で囲まれた舞台袖のオーケストラピットでやっていますから、生の音が客席に聞こえてこないのですが、生の台詞と一緒に演奏者が生でやると真剣勝負の気迫が違います。

ただし、生で演奏、生音で効果音をやるということの良さと、録音でやった方がいい場合とがあります。そのようなことも考えて音響創造を進めて行かないと、観客を感動させる、または観客に訴える音にならないのです。ですから、サウンドリインフォースして音を拡大することがあっても、生演奏の力はすごいのです。

したがって、私たち音響家は、電気音響屋であってはならないと思います。

 

生演奏の有効性

この作品の中で、暗殺されたハムレットの父が亡霊になって出てくる場面があります。通常の歌舞伎ですとヒュードロドロという音で出てくれば、それだけで亡霊と分かるのですが、この作品ではスモーク(煙)の中からニューっと出てくるのです。

そこでなぜ暗殺されたかを説明する長い台詞があります。

ここで、演出家と意見の食い違いがありました。能の面をかぶっているので台詞がこもるから録音にしろと、演出家は言うのです。

役者からすると、その方がありがたいのです。役者は長い台詞を覚えなくて済むという安易な気持もあります。


協議の結果、「ハムレットの台詞は生でやっているので、亡霊の声を録音にすると、毎日のリズムが崩れ、しっくりいかない」という理由で、亡霊も生の台詞にしてワイヤレスマイクを付けてリバーブを掛けることにしました。これで、緊迫感が高まりました。

 

ところが、その長い台詞は非常に重要な台詞なので、観客によく聞こえなければならないのですが、リバーブを掛けると明瞭度が落ちて聞き取りにくくなります。

初日の観客のアンケートにも「あそこの台詞をはっきり聞きたい」という意見があったので、演出家とはうまく話がまとまり、台詞の頭の部分だけ深いリバーブで、その後は少しずつリバーブを薄くし、重要な台詞の部分はほとんどリバーブを無くしました。そのようにしておいて、最後の台詞は元の深いリバーブして、亡霊の声になって退場していくようにしました。そのような小さな工夫でも大きな効果が得られます。

それに対して、演劇評論家から「あれは歌舞伎ではない」という批評がありました。

そのためなのか、東京公演最後の一日だけ演劇関連学会会員だけに見せる公演がありまして、そのときは能面も使わずリバーブも用いないで古典歌舞伎で演じました。

結果、本当におもしろくない場面になってしまいましたが、ロンドン公演からは復活しましたが、このようなとき、サウンドデザイナーは自分の考えを述べなければならないと思います。

演出家は聴覚よりも視覚的なことを重要視しがちです。音響心理までは目が届かないことが多いのです。例えば、初日が開いて3日目くらいまでは、照明や舞台装置、役者の動きに注目していて、その後に音響に関する駄目出しが出てきます。だから、それまでに音をまとめればよいのではと勘違いしてはいけません。それでは観客を無視することになります。観客のアンケートに逐一応じる必要はないのですが、私たちのやっていることに、どんな反応をしているかのチェックポイントにはなります。

 

宇野信夫という演出家と何度か仕事をしましたが、歌舞伎であっても録音の方が良いときは録音でやろうという演出家でした。例えば、遠くから聞こえてくる効果音などは、録音の方が自在に操作ができる。また、台詞に合わせて上げたり下げたり操作する(活け殺し)ことができます。生演奏の場合は観客自身がイメージを作ることになりますが、オペレータの感性と表現力でイメージを作って聞かせるという考え方です。どちらが良いかは別にして、その演劇の持つ本質は何かということを探りながら、本質に沿った演出をしていけばよいと思います。

 

今回の作品では、主役が3役早替わりをします。一人で2つの役の台詞のやりとりをする場面があります。従って、陰の台詞は録音しておかなければならないのです。このような録音は、敢えて舞台で収録します。劇場で録ると生の台詞と同じ環境になるので調和します。騒音が気になりますが、再生する場所と同じ騒音が収録されているのですから、それほど気にしていません。

 

マイクを使う前に考えるべきこと

それから、1000人以下の劇場なのに、主役にワイヤレスマイクをつけて欲しいと申し出がありました。

これは音響家だけの考えでやるべきでないので、演出家と相談します。演出家は必要ないといいます。


実は、ここで二つの考え方があります。

一つは、心を鬼にしてわざわざマイクを使わないのです。たしかに主役の台詞は脇役に負けいてます。それを演出サイドも分かってるのです。

ただし、それは音の大小ではなく、少し表現力が足らないのです。台詞を覚えて、台詞の意味をよく理解して、自分の言葉にしてしまえば聞こえてきます。ただ音量を上げれば済むものではないのです。

この状態でマイクを使用すれば、騒々しくなるだけです。成長期の役者に間違った対応をすると、その役者を駄目にしてしまうことにもなります。

結局、ワイヤレスマイクは使わないことにしましたが、徐々にしっかり聞こえてくるようになり、劇場中に心地よく響きわたりました。ロンドン公演の頃には生き生きとやっていました。このように、私たちが手助けしないで自分の力で成長するように仕向けるのもサウンドデザイナの役目なのです。

 

使っても良い例として、もう亡くなられましたけど尾上松禄さんが一度倒れられて後の最後の舞台として、復活公演を一日だけやったときは、ワイヤレスマイク使用したそうです。これも正しい使い方です。


ニューヨークのライブハウスに行くと、若いミュージシャンは先輩のマイクの高さなどを調整しているのですが、自分はマイクを用いないで演奏していました。落語の前座をSRしないのも同じような考えです。


そういう意味では、電気音響を使う前にやるべきことがたくさんあるわけです。演奏家の配列についてアドバイスしたり、効果音による楽器のビリつきをなくすなど、音に関する全ての点についてアドバイスしながら音作りを進めて行くのがサウンドデザイナーの仕事です。

 

感動を与える効果音

次は効果音に関してなのですが、実際の音とは違うけれど生の音を用いたインパクトのある効果音が良いとか、リアルな録音の方が良いとかがあると思うのです。


ロンドンのミュージカルを見てますとはっきりとその意図が分かるのです。映画のようなかっこいい音ではないですが、銃声は生音を主に使っていました。


多分日本だとそういうところは「バビューン」とかいう録音した音を使うと思うんですが、ロンドンのミュージカルではキッカケとなる音は生音で出して、続けて録音した音を被せていました。

生の音は「バツン」という音なのですが、目の前で火薬が弾ける音は感動します。どちらが良いかとか、効き目があるかとか、とても重要になってくると思います。


写実的にやるのか、形容的が良いのか、どちらが良いかということを決めるのもサウンドデザイナーの仕事です。

 

まず明確なイメージを持って、具現化していく

今、音響設備というものがすごく発達してきております。ますます発達して、真っ白な画用紙というか、無色に近い音場を私たちに与えてくれています。

 

したがつて、音質向上のことだけを追求していると仕事がなくなってしまうということになります。

ということは、そういう真っ白い画用紙の上にどういうイメージの音を具現して行くかとか、そういうことをもう少し研究してみるべきなのです。

それが、今回のこういったデザイナー養成講座の開催のきっかけになったのです。

ただ、我々の地位の確立なんてことを叫んでいても、実らないと思うのです。

舞台の音響の人たちは説明が下手であると、よく言われます。


それは雄弁になれということではなくて、音響以外のセクションの人たちにも上手に説明して、理解させる力を持ちましょうということなのです。

なぜかというと、プロデューサーや演出家などに対して、専門用語を使ってしまい、そういうことで逃げてしまっているのではないかと思うのです。

もっと易しい言葉で説明してあげることも、私たちの大きな力になって行くのではないかということを最近感じます。


それからやはり、最新の技術というのはいつの時代でも取り入れて行きたい。

音楽でもそうですけれど、新しい楽器を使って新しい音楽を作って行くのは非常に良いと思いますし、そのときに何を表現したいかということをしっかりと見極めて、それで私たちが参加していかなければならないのです。


最近ではコンピュータで制御する調整卓が出てきましたけど、実はそれを使うには、これから何をしたいかという明確なイメージと、どうしたいかという仕事の目的がはっきりしていないと使えないのです。

現場に行ってから考えてから作りましょうということで通用しなくなります。

そして、伝統芸能であっても最新のコンピュータ技術を導入すべきですが、決してその芸能の持っている本質を見失わないで、より良いものを作っていくという姿勢が必要ではないでしょうか。

 

それから私たちの仕事は、物質的なことを追求するのも大切ですが、やはり人間関係が最も大切です。


また、オペレータに良い環境を作ってあげることも必要なのです。

たとえば、オペレータが間違いをしたときに、怒鳴りたくても怒鳴らないで、ちょっと気持を休めて次の失敗をしないように誘導するということが大切です。

そのようなことも含めて、全体がかうまく進行するようにすることもサウンドデザイナーの仕事なのです。


現在、音響のみなさんは自分の立場を認めさせようとしているわけですけれども、このような笑い話があります。

演劇でもスピーカを見せれば音響の仕事が意識されるとばかり、時代劇でも花道の横に大きなスピーカを置いたりしています。あるとき、侍が堂々と花道から登場して、スピーカが邪魔で身体を横にして通ったという話があるのです。


果たして、このようなことで本当に我々の立場が良くなるかというと、それは逆効果になります。このようなことで自分を売ろうとしないで、観客を感動させる仕事で地位を確立したいものです。(2005年筆)



オペラと音響(1999年)

 

最近、劇場関係者から「ウイーンの国立歌劇場はミュージカル劇場になったらしい」という声を耳にする。

勿論、冗談半分であると思うが、日本の音響メーカーがデジタル調整卓を納入したことで、そのPRがあたかも派手に電気音響を用いているかのような印象を与えているのかもしれない。


もしも、このような音創り(ミュージカルのような)が行われたいたらどうであろう。

人気のオペラ歌手までをも、手抜きをするとブーイングでやり直しさせるほどのウイーン市民が、電気音響で破壊されたオペラを許すはずがない。

陰のコーラスや効果音、亡霊など特殊な音声に使用するだけで、舞台上の歌手やオーケストラには使用していないのが事実である。


このことで日本に、電気音響は是か非かという論議が持ち上がった。まことに結構なことである。「やっとオペラの音響は入り口に差し掛かったか」という観である。


滑稽な話であるが、舞台技術者の採用の面接試験で、オペラにPAは必要かどうかなどと質問する魔女狩的審査員も出現しているという。


オペラに電気音響は必要か不必要かの二者択一になってしまうのが問題である。音響デザインとして、電気を用いて音を補強すべきか、それとも歌の邪魔をしているオーケストラピットに蓋をするかを決断して、最も適切に作家または演出家の表現のサポートをすれば良いのではないだろうか。

要は、電気の無かった時代の伝統芸術に新しい手法を導入するとは何事かという議論なのである。電気照明は結構だが、電気音響はケシカランということである。


一昨年、ウイーン国立歌劇場へ研修に行くという音響家に、まず日本の歌舞伎を学んでから行くようにアドバイスした。

これには、日本の劇場運営事情を熟知しておけば帰国後、「外国では・・・」を連発してヒンシュクをかわないようにということと、歌舞伎の音響家もオペラのトーンマイスターと同じような仕事をしているはずだ、というメッセージが込めてである。


私たちは、1966年に国立劇場が開場したときから歌舞伎の音響を私たちでデザインするという方針に決めた。

台詞、音楽、効果音のバランスを良くすることで、調和のよい歌舞伎の音を創造しようとしたのである。それまでは、観客席で音を聞いてそれぞれの音関係の部署に支持する人物は不在であった。私たちは、それまで役者や小道具方などが担当していた効果音道具の演奏や操作も音響技術者の仕事にするようにした。このようにすることで、劇場全体の音を観客席からみた角度でチューニングして、観客に理解しやすく、心地好く迫力ある音を目指した。このような行為に対して大反対が起こりマスコミで叩かれ、回りから白い目で見られ、役者から叱られもした。

しかし、私たちは無闇に電気音響を用いることはしなかった。これから成長する若手役者の声は絶対にSRしないことと申し合わせた。

台詞の邪魔をしている下座の三味線の音量を抑さえるために、楽器の前に黒い布を張ったこともある。


生で演奏する効果音が観客席に聞こえるように黒塗りの反響板を設置することもある。

必要とあれば騒音源となる空調を停止することもある。

必要な部分だけ、どうしても聞かせたい台詞だけ、舞台の陰で演奏する音楽や効果音だけ、必要に応じて電気音響で補強することを鉄則とした。


電気音響に理解を示してくれたのは、演出家の宇野信夫先生であった。先生は、音量を芝居にあわせて微妙に操作するには録音の方が効果的だといって、音楽をわざわざ録音にしたこともあった。


それから30年ほど経過した現在では、30台のタイムディレイ装置を用いて音像定位して、より自然な音でSRしている。大反対した俳優の声も観客には気づかれないように音響補強(SR)をしている。ときどき耳にする「この劇場はセリフが良く聞こえるね」という観客の会話が私たちの測定器である。


ところで、ウイーンでの研修を終えて帰ってきた音響家の第一声は、「生の音の素晴らしさが理解できた。オペラのトーンマイスターも歌舞伎の音響家と同じ考えで音を創造していた」であった。


台詞は、音量が大きい小さいの問題ではなく、言葉の明瞭度の問題である。台詞劇では、表現力のない俳優の声は聞こえてこないが、表現力のある俳優は声量が小さくても実に良く聞こえてくるものである。

生の音に聞かせるSRは、ハイファイ音では不自然になる。声の質を分析して、不足している周波数成分だけを補強するようにデザインすると電気音響の臭いが消える。特に日本語の場合は、低音域の違和感に要注意である。


SRしていることが観客に気づかれないようにするには、次のような基本原則がある。

 

  1. 演奏位置や演技位置、舞台装置の音響的条件を最適に改善してから、建築音響の一部であるかのように電気音響を使用する。
  2. 音響装置は、観客席から見えないように設置する。
  3. 演技、演奏、演出を絶対に歪めたりして破壊しないよう、細心の注意をする。
  4. 台詞には、絶対に聞かせたいもの、聞かせたくないもの、聞こえなくていいものがある。最も必要な部分だけを補強すればよい。
  5. 積極的に最新鋭の音響装置を用いながらも、操作は消極的で慎重に、音響家の存在を気づかれないようにする。

 

最近、日本の舞台裏では、一生懸命歌っている人に「マイクがあるのだから、そんなに頑張らなくてもいいのだ」と忠告しているという話も耳にする。これこそ、ロングランのためのミュージカルの世界である。本来は、フルパワーで歌って演技した末に電気音響の補強があるのではないか。

また、モニターの使い過ぎなどさまざまな要素が、オペラの音響を駄目にしている。

しかし、いつの世も先駆者は叩かれながら、粘り強く努力する運命にある。私たちは、足の引っ張り合いをしていないで、互いに支援し合って、研鑽すべきである。